昭和44年05月12日 夜の御理解
今日美登里会に、私も入らせて頂いてから、お話をまっ聞かせてもろうたり、させてもらったりしたんですけども。もういつの場合でも、この会、のお話を頂いとる。どの人の話でも、もうそこに神様を生き生きと現しておられたり、感じておられたりという話でもう、頂いておってから本当に有り難い雰囲気の中に、まっいつも終わらせて頂くのですけれども。今日はとりわけそういう、有り難いお話を聞かせてもろうた。
私があちらでお話をさせて頂いた事は、丁度私今日お知らせに頂いとったあのミレーという人が書いた「晩鐘」という有名な絵がありますよね。あの夕方にもう日がこう沈む、沈む頃に農夫の若い夫婦が、あの遠い所に教会の会堂のまが見えて、そこの鐘鐘が鳴っておるというとこですよね。教会堂の鐘にあの合わしてまあ敬虔の祈りを、夫婦の者がこう捧げておるという絵ですよね。
その絵を頂いてねその嫁さんの方がねあのお祈りをせずに、キョローキョロしとる所を頂いたんです。主人の方は一生懸命こうもう是だったら、もう本当にその祈りの有り難い雰囲気というものを壊してしまう。家ん中でもそうである主人がいかに有り難いなあと言うても、家内が有り難くなさそうにしておったり、家内が有り難いですねえと言うても何が有り難かつかって言うなら、もうそれだけで雰囲気が壊れるようにね。
どうでも一つ家庭が本気で、ね。一家を挙げて有り難いことだなあと言ったら有り難い事だなあという雰囲気になってしまう様な、おかげを頂かなければならん。為には一つここまでは頂いておきたいというて、まあお話をすることです。今日ちょうど、岡崎さんがお参りさせてみえて、この頃ちょっとこうお参りが遠いのです。お月次祭の時には必ず川の物のお供えをなされますから、みえますけれども。
普通はちょっとこう毎朝参られとるのが参られない。ところが今日はその参ってみえてからお届けにです、昨日たまたま笠さんの所に自動車の修繕を持ってった所が、ちょうどあの佐田さんと、佐田さんがやっぱ修繕に見えておってから、一所懸命信心話があっておるところであった。そこで自分がその信心話にかたらせて頂いて、まあ笠さんと佐田さんの本当に手厚い信心を、聞かせて頂いておったら、佐田さんがその岡崎さんに言われること。岡崎さんが笠さんに、じゃない、佐田さんに言うておられること。
佐田さんこの頃あんたえらい肥えられたですねって、その言われた所が佐田さんがこういう事を言われた。それが岡崎さんこの頃はね、もう一家を挙げてああしてあの、朝の御祈念にお参りさせて頂いて、逐一親先生のお取次ぎを頂いてからおかげを頂く。様々な難儀はある様々な心配はあるけれどね、お取次ぎを頂くとね、もうその場から安心が出来れる。やっぱおかげで肥えよっとでしょ、というのを聞いて岡崎さんがね。
もうそれこそ弾かれた様に、はあ自分には今この辺が欠けておったと気付いたというのですよ。ですからそういうその、例えば間違いのないというか、日々お取次ぎを頂いて、信心の稽古をしておるという事が、安心であるとか喜びであるという、おかげの体験というものをです、例えば失うっておってもそこまで頂いておると、ほっとしたそのなら、佐田さんの一言にです。
あの関さんがはあ私は今ここを失っておったと、言うておられるそこまではね、お互いの信心を、例えば様々な時があるけれども、頂いておかなければいけないなという、まっ話しさせて頂いたんですが。もう今日はどの人の話を聞いても、そこまで以上のお話でしたですね。やはりあの椛目の中心の、信心を背負うておられる婦人の方達ばかりの集いですから、本当にさすがにと私思ったんですけども。
中にあの秋山さんが、東京に秋山さんのご主人のあのお友達がおられる。先日何かお世話になっとったことがあったので、こちらのお漬物が美味しいのがあるからというて、そのこちらのお漬物を一樽送られた。そん時にただ送っただけでは向こうで、東京辺りに中に、中重石がないから、中重石が困られるだろうと思って、その向かいの二階のおけ屋さん言うて、中に落し蓋を一緒に送っとったっち。
お父さんはそげなこつする事がいろうか、お漬物だけ送りゃよかつにお前、そげなこつそれでも東京の真中に送るとに、その中に落し蓋がなかったら漬物も味が悪なるし、それだけの事はしてあげとかにゃと言うて、その頼んだらわずか100円でおけ屋さんが作ってくれたというんですね中蓋を、ね。そしたらねその事がよっぽど嬉しかったらしいて、もう丁度私がこちらにお参りしておりました間に、東京からそん電話が掛ってですね、漬物の御礼じゃなくてその、中の蓋のお礼の電話だったとこういうんです、ね。
私は本当にね人に物を一つお送りするでもね、本当にあの思いが込められるという事がね、そういう信心がね、あの日頃になされておかなければいけないという事ですよ、ね。そこに神様を生き生きと感じておらんと、その心が起こってこんのです。ね、本当にあのそこまでは頂いておかなければならん。例えてまあ今、久保山さんがお届けをされるのに、丁度久保山さんのお話の中に、筍を煮られた話があっておった。
本当にあの、田代さんが大変お好きだった。まあ総代友達でもあるし遠い親戚関係にもなるもんですから、本当にあの田代さんの御霊様にお供えさせて頂きたいと一生懸命、思わせて頂いておったら、丁度その便があったからお供えさせて頂いたと。それがねとても自分でも嬉しかった、有り難かったというお話なんです。そしたら今お届けされるのに、今日、あれから帰らせて頂きましたら、御霊様にね水羊羹やら羊羹、何か美味しい甘い物がいっぱいこうお供えしてあるげなもん。
こりゃ陽子さん誰がお供えしとるとのっち言ったら、あの小枝子さんがあの頂いたからって言うてから、久保山先生の御霊様にお供えして下さいって言うてね、あのお供えしておったのを見てから感激したというお届けでしたけれども。まあ生きる御霊様同士のお付き合いを見るごたるかん、聞くようだねって言うてねえ、私も話した事ですけれどもです。そういうもうそこに生き生きとしてその生々しいまでにね神様を頂いておる。
よしその時には、枯れたようであっても、ちょっとヒントを与えられたら、そうして生きた神様をすぐ、取り戻せれるだけの信心。本当に自分の信心というものがです、ね、一人が有り難いなあ、有り難いなあと思うておっても、一人が有り難そうにしておったら、何が有り難かっちゃろうかっちいうごたるふうな顔しとるならですね、もう、それこそミレーの、あの晩鐘がです、ね、
もし主人の方だけが敬虔な祈りを捧げておっても、嫁さんがキョロキョロしておったんじゃ、もうあのミレーの絵のいわゆる素晴らしさ、こちらにああいう、祈りの内容というものが伝わってくるようなものをです、そこに感じとる事が出来ない様に、私共の信心生活というものが、本当にそこの生き生きした神様を何時も心の中に頂いておかなければならないという事ですね。
どうぞ。